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JANNET・JICA東京共催 JANNET研究会「アフリカのコミュニティ開発と障害」報告書 開催日:2005年1月22日 2時〜4時 会 場:JICA東京 4階 オリエンテーション会議室 |
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目次
1.冒頭の挨拶 鍋屋史朗 JICA 東京国際センター 業務グループ長 2.発表 ・アフリカへの国際協力の現状 鍋屋史朗 JICA 東京国際センター 業務グループ長 ・村落開発普及員としての体験報告inアフリカ 星野明彦 JICA 無償資金協力部 ・作業療法士としての体験報告 in マラウィ 河野 眞 国際医療福祉大学 進行:沼田ちよこ 日本知的障害連盟、JANNET幹事 3.質疑・応答 進行:山崎眞由美 アジア保健研修財団(AHI)、JANNET幹事 4.閉会の挨拶 田口順子 日本理学療法士協会、JANNET幹事 |
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冒頭の挨拶 | |
鍋屋: 本日は、お忙しい中JICA東京までおいでいただきまして、ありがとうございます。私は昨年の2月に本部のアフリカ課勤務を終えまして、JICA東京へまいりました。JICA東京では社会保障関係の研修を実施しており、その関係で上野さんとお会いした際、非常に軽い気持ちで今後アフリカ向けの研修、活動ができないだろうか、というお話をさせていただきました。それが、今日JANNETの研究会という形で実を結んで、また私のようなものがお時間をいただいてお話をさせていただくという機会になりましたことを、大変ありがたく思っております。 JANNETについては、障害分野の国際協力活動のNGO連絡会ということで承知しております。JICAも、数年前より国民参加、それから緒方理事長が申し上げています人間の安全保障の観点で、実際に人々に届く支援をしていくためには、政府レベルだけでは十分ではないという理解に至っております。その観点でNGOの方々、それから広く政府レベルではない方々との連携というのは、非常に重要なものと理解しております。JICA東京の障害者関係の研修は来年度も継続していきますので、JANNETの方々との連携、ご支援というのはますます必要であり、また取り組みのほうの関係も成熟したものとして続けていければというふうに考えています。 |
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沼田:では、これから3人の方々に発表していただきます。まず最初は、今ご挨拶いただいた鍋屋さんから、アフリカ全体を概観していただきます。JANNETの会員は、アフリカにかかわっている人が多くありませんので、アフリカとはどのような地域か、日本からアフリカへの協力、JICAからアフリカへの協力、そしてこれからということでご説明をいただきます。続きまして、青年協力隊でアフリカ、ザンビアそれからリベリアに行っていらした星野さんから活動についてお話をいただきまして、最後に、障害分野でアフリカの協力隊として2年、マラウイに行っていらした河野さんからお話をいただきます。その後、休憩を挟みまして、質疑・ディスカッションに移りたいと思います。 |
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発表 1.アフリカへの国際協力の現状 JICA 東京国際センター 業務グループ長 鍋屋史朗 |
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今日の研究会の趣旨は、アフリカのイメージを具体的に持っていただくということで、後のお2人、星野さん、それから河野さんの実際の現場の活動のほうが中心というふうに理解しております。私の話は若干硬い話になるかと思いますが、アフリカの概観を知るということで少々辛抱いただければと思います。 これはアフリカの分割について、1902年ごろのアフリカがどういうふうに分かれていたかという図です。(参考:図2-1アフリカの分割−『アフリカ経済論』北川勝彦/編著 高橋基樹/編著 、ミネルヴァ書房)今日お話ししますアフリカは、サハラ砂漠以南の48カ国、約6億7,000万人の方が住んでいる地域を対象にしております。エジプト、チュニジア、モロッコ等の北の国々の5カ国を、アフリカ大陸の53カ国から抜いた形の48カ国になります。アフリカは19世紀にヨーロッパの列強による分割で、この当時アフリカ人の意思に関係なく、各国の勢力圏ごとにアフリカに勝手に地図を引いて植民地支配が始まったというものです。この当時の分割の歴史を背負いながら現在に至っているということになります。アフリカは、1950年から1960年代に独立した国々が多くなっています。東京オリンピックの閉会の日(10月24日)にザンビアが独立をして、ザンビアの国旗を持って東京オリンピックの会場を駆けたことをおぼえていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。 アフリカ経済ですが、独立した1950年ごろは、アジアと大体同じぐらいのレベルにありました(参考:図1-1アフリカ、アジアのGNPが開発途上国合計に占める割合図−『図説アフリカ経済』平野克己著、2002年、日本評論社)。現在は、東アジア、中国の大体3分の1ぐらいになります。このピンクのものがアフリカになりますが、ご覧いただけますでしょうか。一番下は、南アフリカを含まないものになっておりますけれども、南アフリカのGDPは、アフリカで3分の1ぐらいの割合を占めるぐらい大きいんです。ですから、南アフリカが含まれるか含まれないかでも、これだけ割合が異なっています。現在のアフリカのさまざまな指標は、アフリカの社会面での遅れを示しています。例えばUNDPの人間開発指数によれば2003年では、175カ国のうち最下位の25カ国、これはすべてアフリカの諸国になっております。それから、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、2015年を目標としたミレニアム・ディベロップメント・ゴール(ミレニアム開発目標)の7指標のいずれもが、アフリカは目標到達ベースから大きく遅れております。HIV/エイズはアフリカの経済・社会の大きな問題になっています。全世界の感染者、患者総数の約7割の2,900万人、約3,000万人近い人がアフリカの人々という状況にあります。HIV/エイズ、これは本人の死のみならず、労働人口の減少、それから母親がかかるケースが多いので、エイズ孤児の増加という大きな社会問を起こしております。また、アフリカの大きな問題の1つは紛争です。1990年代以降で、アフリカ53カ国のうち紛争経験国は19カ国。難民も現在、世界の3分の1に当たる400万人の難民を生み出しているという形になります。 新生アフリカ諸国、これは1950年から1960年代にかけ独立以降、経済開発を重点課題としました。独立後、比較的順調な成長を見ておりましたけれども、第一次石油危機(1973年)、それから第二次石油危機(1979年)、このオイルショックを契機としまして、アフリカの経済停滞というのが始まりました。アフリカは独立後、政府を中心とした開発、それからアフリカ化、いわゆるアフリカナイゼーションを積極的に進めましたので、これに伴う行政の肥大化が経済停滞の一因にもなってまいりました。アフリカはその後、経済停滞の下で世界銀行、それからIMFの構造調整を今度は受けることになります。この当時、アフリカがなぜ停滞していくのかということについて、いろんな議論がありました。アフリカ側ではいわゆる植民地経済の遺産がアフリカ経済の停滞を招いているところが強調されました。世界銀行は、この当時「サブ・サハラ・アフリカの開発促進」という報告書の中で、それもあるけれども、やはりアフリカ政府の政策に問題もあるということで、この構造調整の導入に当たって行政改革、民営化、補助金の削減等、を進めることになりました。アフリカは40カ国近い国が構造調整を受け入れたことになります。実際この構造調整が、どういうふうにアフリカの経済を立て直しにいったかということについては種々議論がありますが、結果としてはあまりうまくいかなかったということで、国連機関の中でもユニセフ等からも批判が出まして、1980年代の末には構造調整の見直しが始まりました。 アフリカでは結局、構造調整を導入しても深刻な経済停滞というのは止まらなかったということ。それから1980年代の末には、ご存じのように米ソのいわゆる冷戦終結というのがありまして、対アフリカの援助というのが非常に冷え込んできたわけです。東西の冷戦があるときには、東から西から、やはり自分の陣営に引き込むということで、アフリカにも非常に大きな援助が入ってきましたが、ヨーロッパを中心とした援助疲れもあり、アフリカへの援助が少なくなってきました。一方、アフリカの中でも政治的な変革があり、民主化の促進がなされてきました。私がザンビアに赴任した1991年ですが、ザンビアは独立以来、一党独裁でありましたけれども、1991年に初めて複数政党選挙が行われ、大きな民主化の促進が行われて、現在に至るようになりました。 先ほど来、アフリカの負の面、いわゆるマイナス面を取り上げておりますが、こういう民主化の促進、アメリカのいわゆる9.11のテロ以来でしょうか、欧米を中心としてアフリカへの援助というのは、だんだん復活しております。アフリカ自身も2001年に、NEPAD(アフリカ開発のための新パートナーシップ)という新しいプログラムを自分たちのプログラムとして発表しました。アフリカは、OAUから2002年にはAU(アフリカ連合)を設立して現在に至っております。 最後に、日本のアフリカ支援です。日本のアフリカ援助は、大体第5期に区分できると言われております。第1期が、日本が国際援助を始めた1954年から1972年。第2期が1973年から1980年代の第一次石油危機。この当時に資源外交というのが始まり、1981年以降の約10年間が第3期として、ODA5カ年倍増計画というものがありました。それから、第4期が1989年から2000年。日本の貿易で獲得した外貨を世界に貢献させるということで、ODA世界一というのがこのとき。このときにアフリカに対しての支援を日本も本格的に始め、1993年に東京アフリカ開発会議(TICAD)が行われました。1998年に、第2回アフリカ開発会議。2003年に、第3回目のアフリカ開発会議が行われました。日本はこの間、アフリカ援助の主要なドナーになっております。ただTICADを進めるにつれて、日本の対アフリカODAを含めてODA全体が今度は縮小傾向になってきているというのは、TICADを共催している日本の立場からすると、若干皮肉な状況になっていると思います。 東京アフリカ開発会議で日本はどういうことを主張しているかについて説明します。これは第3回アフリカ開発会議で、対アフリカ支援でどういう成果をしたかというのを外務省がまとめた資料です。10年の成果について例えば学校建設では、260万人の子供たちに学校教育を受ける機会が与えられた、ワクチン接種等で、2億4,000万人の保健医療サービスの提供と、アクセスが改善されました。それから、460万人の人々に、安全な飲料水および衛生施設が提供されました。また、今後TICADIII以降、日本はどういうことをしていくかということが発表されました。日本政府としましては、まずアフリカのオーナーシップを尊重して、パートナーシップ、対等な立場で協力をしていく。それから、人間の安全保障に特に留意をして協力をしていく、対アフリカ支援の3つを特に強調しています。資料の一番左が、人間中心の開発について、保健医療関係、教育関係、それから、経済成長を通じた貧困削減、そして平和の定着。特に日本政府は、従来は紛争解決に積極的な支援というのはあまりしておりませんでしたが、この点は今後強化していきたいということで発表されております。 最後に、JICAは何をしてきたかということです。実は対アフリカということでいきますと、JICAが行っている、人を通じた技術協力は、やはりアジアに比べてまだまだ少ないです。その中では、やはり青年海外協力隊のシェアが大きくなっています。2003年度では、アジアに27%、アフリカは23%ですから、JICAの対アフリカ向けの予算(年間14%から15%)と比較しますと、アフリカ派遣の協力隊員人数は高くなっています。 今後JICAはどういうことをしていくか。2003年10月にJICAは国際協力機構という独立行政法人になりました。新理事長の緒方が、先ほどご紹介しました人間の安全保障を特に強調し、またそのためには、地域的にはアフリカ支援がもっと強化されるべきというのが、JICAの方針になっております。具体的には、アフリカのセネガル、ケニアの事務所をさらに強化して、アフリカ支援というのを体制の面からも強化しています。それから、JICAの内部の取り組みとしましては、各支援を包括的に行うということで、アフリカ支援対策会議というのをJICAの中に設けております。これは、ほかの地域ではございませんので、対アフリカというのを特に意識した取り組みがとられているということです。 私からの紹介は以上になります。JICAについての質問がありましたら、後ほどお願いします。以上でございます。 |
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沼田: 鍋屋さん、ありがとうございました。1950年代に独立してからのアフリカがアジアと比べて開発がどうして遅れたのか、国際情勢の影響、そして日本の支援、それからJICAのこれからの方針と、大変たくさんの情報をコンパクトにまとめていただきました。 次の発表者は星野明彦さんです。星野さんは、1989年からリベリアのほうに青年協力隊として赴任されまして、農村開発に従事していらっしゃいました。その後ザンビアに移られまして、やはり農村開発のお仕事をされました。ですから本日は、障害というよりは農村における開発業務についてお話を伺いたいと思います。その後、お帰りになりましてからパプアニューギニアでJICAの事務局員として勤務されまして、現在は国際協力機構の無償資金協力部 業務第1グループ 協力チームのほうでお仕事をされており、大変たくさんのご経験をお持ちです。 |
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発表 2.村落開発普及員としての体験報告inアフリカ JICA 無償資金協力部 業務第一グループ 教育チーム 星野明彦 |
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私は協力隊員として、ザンビアとリベリアにおいて活動を行った経験があります。 今回は特に、リベリアでの活動に基づいた報告をさせていただきたいと思います。内容的には、特に障害という面での活動は現地でやってきていなかったため、コミュニティ開発全体に携わった結果としてお話しできればと思っています。先ほども報告がありましたように、先進国と途上国の格差なりがあり、特にアフリカが落ち込んできている。そういった大きな対比と同時に、途上国の中においても、都市と農村という2つの軸がありまして。一般的にアフリカの都市というのは、見た目にもかなり発達している。ビルも建っているし、車も走っているし、テレビも電話もある。私が目を向けたいのは農村の姿であり、都市とは違う農村というものがどういう存在なのかということについてお話しさせていただきます。 まず私が赴任しましたのは、リベリアという国です。アフリカで最初の共和国ですが、1989年から2003年のつい最近まで、14年間内戦にありました。私は1989年から1990年5月まで村落開発普及員として活動していまして、ちょうど5月に現地から内戦のため退避してきて、そしてそれ以来リベリアは内戦状態にあって、昨年やっと和平協定が結ばれました。したがって、この14年間で、リベリアの経済・社会というのはかなり破壊されて、経済状態も、昔より3分の1とかに落ち込んでいるという現状です。私が従事したのは、熱帯雨林の真ん中にあります人口200人の村です。村の状況ですが、村人全員が自給的な焼き畑農業に従事しています。生産しているのは、主食の陸稲、キャッサバ、バナナ、サトウキビ、パーム、カカオなどです。当然ながら医療、教育、水道、電気、ガスなどの社会サービスは全くありません。人々は常に食糧不足、栄養不足、病気などに直面している。私が現地で驚いたのは、子供たちが普通アジアですと「ギブミー・チョコレート」とか「ギブミー・キャンデー」とか言うんですけれども、現地では「ギブミー・ライス」と、常に腹をすかせていると、そういう状況です。あと、病気に関しては、雨季と乾季がありまして、じめじめした雨季においては、ばたばたと村人が死んでいきます。当然私も現地で2回マラリアにかかって苦しんで治ったわけですけれども、そういう状況でした。 話の途中になるのですが、スライドで村の状況をご覧いただければと思っております。これが、私が住んでいた村です。こういう土壁の家に住んでいます。村の人々は、通常は道具をすべて自分で作っています。日々栄養不足に悩まされておりますが、子供たちはこのように芋虫を食べて。芋虫を食べるのは昔からの習慣でして、私も時々食べていました。村ではディスコやバーやそういう娯楽はありませんので、若者は自分で作った楽器を弾いて遊ぶというか、楽しんでいるというような生活です。現地はツエツエバエに汚染された地域で、外に出ると一瞬にしてツエツエバエにやられてしまって、ものすごく腫れた状態になってしまう。現地では、やはり伝統医療というものがありまして、特殊な薬草を水に浸して、そして病気の子供に付ける。こういったこともやっています。現地では焼き畑農業で、雨季の直前になりますと、焼き畑で畑を開墾する。稲を植えまして3カ月ぐらいで収穫。収穫のときのこの素晴らしい笑顔というのが、やはり印象的です。村の生活は、ただ日々暮らしているのではなくて、こうした踊りとか、歌とか、日常的なところの節々に楽しい文化があるという状況です。雨季になりますと、地面から羽根アリが出てくるわけですけれども、その日の晩は、みんな村人が本当に大騒ぎして羽根アリをつかまえる。羽根アリはおやつ、スナックです。私も写っていますけれども、それは非常に楽しい経験でした。 このような村の状況の中で私は、村人自身が力を持って何かに取り組んでいけるように、方向付けなりをすることが私の任務だと考えました。それにしても環境や衛生状況が大変厳しいので、まずは村人とともにとにかく暮らすこと、生きていくことが第一の役割。暮らしていくというだけでも、食料を村人が自ら作って、そして水をくんできて、火をおこして、そして洗濯してというすべてがやはり助け合い、助け合わないと暮らしていけない。そういう状況があったので、初めての外国人である私が村人と一緒に暮らすこと、そのこと自体に意味があると、そういうふうにとらえました。 その次に、現地のいろいろな自然環境や生活、食べ物、社会習慣、こうしたものをじっくりと聞いて学んでいく。どういうものなのか、現地を理解しようと努力しました。 ただ住んでみるだけでもそのうちに時間ができてきますので、プロジェクトとしてまず川に橋をということになりました。今までは川には丸木橋を掛けていて、雨季になると丸木橋が常に流されて、毎年橋を造り直していたということでした。村人は、そこにコンクリート製の橋を掛けてほしいということで、友人の土木の協力隊員に設計をお願いして、村人と協力して橋を完成させたところです。橋の後は、やはり子供たちに最小限の算数とかを教えたいという村人の願いがありまして、そのためにまず。教えるにはどこでも、木の下でもいいのですが、やはり形というものは大切だと考えました。形があれば、親も子供を学校に行かせられるということで、学校の開設、校舎の建設を始めました。これは、残念ながら内戦が起こったため途中で中断したままになっています。 これらの過程で気を遣ったことは、村人の自主性を重視し、彼らが何かを企画して、自ら決めた方向に向かって活動をしていけるような、そういう力を付けるように指導というか、協力を行うということです。その背景には、私が村にいても当然いつかは終わりになる。外部からの支援というのは一時的な触媒というものであるという考えがありまして、彼ら自身に力を付ける、これを最重要視しました。 また、プロジェクトの写真をご覧ください。これが、川の丸木橋です。コンクリート橋を造るための事前の調査を行っています。近隣の村を合わせて9ケ村あります。総勢2,000名の人口がありますが、その9ケ村から毎日村人に出てもらって工事をやりました。こういうふうに型枠を造ったわけですが、一時この型枠が全部ぐしゃぐしゃに壊れてしまったことがあって、私は愕然としてもう駄目だと思っていたら、アフリカ人のパワーというか「もう1度やろう」というふうに村人に元気付けられまして、再度造り直しました。本当にアフリカ人の強さをここで学んだ経験があります。ここで鉄筋を組んで、コンクリートを流し込んでおります。最終的に、このようにコンクリート橋が完成して。これは、リベリア国の日本大使の車です。開通式となりました。これは教会で、ベニヤ板を使って算数を教えているんですが、これをきちんとした学校にするために、村人の手で校舎を造り始めたわけです。子供も、水や石を運ぶのを手伝ってくれました。これは私が村を離れる直前ですが、ここまで出来たところで内戦になったわけでございます。 これらの活動を通して、現地は簡素な暮らしの中に豊かさがあり、ただし、内戦というものや社会変動が起こらない限りにおいて豊かさがあるという。その理由として、やはり村のメンバーすべてが生き生きと社会に参加している。村には発達が遅れた子供とかがいたんですが、子供の中においても、その子をたたいたりとかそういう場面もありましたけれども、やはり1人のメンバーとして。例えば、毎週行われる村人による踊りの大会というか、踊りをやるのですが、円陣を作ってその中で一人が踊るのですが、ジェームスという発達が遅れている子供に、いつも村人が「ジェームス出てこい」と。ジェームスが踊りだすと、村人みんなが歓声を上げて喜ぶ。村が1つの一種の家族のような形になっているんです。全員が生き生きと参加している。そういうところに、私も徐々に村に慣れるに従って安心感を覚えたことがあります。ですので、1年5カ月たって日本に戻ってきたときは、私は本当に自分の実家にいても安心感が得られないというか、日本は本当に核家族なので安心感がないという、そういう感覚を経験しました。あと、アフリカの村人は、外部の庇護なし、すなわち国や行政サービスがない中で生きている。先祖から引き継いできている伝統文化や知識を使って、環境に適合して生きている。人々は、村の組織の中で協同精神や秩序や規律、責任感などを学んでいる。実にしっかりした村を感じることができました。 そうした村も、紛争や気象変動や市場化などのいろいろな外部の影響を受けて、定常性というか安定性を失ってきております。こうした中で、村人たちが自らの知識や経験では対処し得ない問題に対しては、やはり先進国や市民のNGOなどの支援というものが重要になってきているのではなかろうかと考えております。やはり現地の状況というのが一番大切だと。外からああだ、こうだ言うよりも、現地に入って現場の状況に合わせて活動を行う。これが、特にコミュニティレベルでの活動において大切ではないでしょうか。あと、当然人間として教えるという姿勢ではなく学んでいくという姿勢、お互いをまず理解し合うという姿勢が大事だと思います。やはり途上国アフリカにおいても、互いの人間関係というのがすべての核になっております。ですから、その辺に留意して協力を行っていくのが大事ではないでしょうか。ちょっと急ぎましたが、報告は以上です。どうもありがとうございました。 |
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沼田: リベリアでの1年5カ月のご経験を通して、農村の厳しい生活状況、でも障害児も統合されて暮らしているということ。そして、協力には私たちの価値観ですとか考えではなくて、現地の方々に添っていくことが大切だというメッセージをいただきました。ありがとうございました。 では、続きまして3人目の発表者、河野眞さんにお願いいたします。河野さんは、国際医療福祉大学 保健学部 作業療法学科に所属していらっしゃいます。平成12年からマラウイに協力隊の作業療法士として派遣されたということです。マラウイでの所属先は、アジアのいろんな国にもたくさんありますチェシレホームです。チェシレホームはイギリスがお金を出している協会ですけれども、そこで活動されまして、作業療法士としてだけではなくて、CBRのほうにもかかわっていらっしゃいました。 |
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発表 3.作業療法士としての体験報告 in マラウィ 国際医療福祉大学作業療法学科、日本作業療法士協会 国際部 河野眞 |
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私は、マラウイに作業療法士隊員として派遣されていたお話をさせていただきます。自分の体験した範囲での話ということで、アフリカ全般に汎化できるお話なのかどうかは分からないのですけれど、そういう体験談として聞いてもらえればいいかなと思っています。 まずマラウイの概要ですが、アフリカの南東部の内陸国という感じでしょうか。真ん中に大きいマラウイ湖という湖があります。海には面していないのです。私がマラウイに行ったのは、2000年から2002年の2年間なんですけど。ただ2000年の当時は、自分もマラウイという国がこの世にあるということも知りませんでしたし、出国するときに成田空港のイミグレーションの係官が「どこに行くんですか」と言って「マラウイです」と答えると、「そういう国があるんですか」と言われたぐらい誰も知らない国でした。ただ最近、若い人はご存じかもしれないんですけど、深夜のテレビ番組で「あいのり」という番組があるんですけれども、それが去年の年末ぐらい、12月か11月ぐらいにマラウイをしばらくバスで通過するようなことをやっていまして、意外にマラウイを知っている人が増えつつあるというぐらいの現状です。広さは日本の本州ぐらいの大きさなんですけど、ここに人口が1,160万人ぐらいの人が住んでいます。マラウイの政府が2002年に発行したPRSPによりますと、貧困層、一応マラウイ政府の定義付けでは、1日の生活費が3分の1ドル以下ぐらいの人というのが6割以上いるという国です。教育水準で言うと、初等教育に就学している人が結構多くて98%以上の人が就学はしているんですけど、義務教育を終了できる人というのは11%ぐらいです。これには当然家の貧しさとかがあって、教育を続けられないという状況もあったりするのだと思います。そして、ちょっと古くなりますけれども2002年のデータで、平均寿命が37.9歳という年齢で、私もマラウイ人であれば、そろそろ死ぬぐらいの年齢になってしまいますけれども、非常に平均寿命が若いのです。若いだけではなくて、この下に書いてありますけれども、1997年は43歳だったものが、1998年に42歳になって、2000年は39歳で、2001年は38.5歳というふうに、だんだんと平均寿命が短くなってきているという状況が続いているようです。これはなぜかというと、やはりエイズの影響とかがあるのではないかというふうに言われています。 私は、マラウイの中の南部の商業都市で、マラウイでは一番大きい街のブランタイヤというところにいました。ご覧のように、かなり高いビルもあったりとか、交通量も多かったりして、人口も50万人ぐらいいましたので大都市です。アフリカへ行ったといっても、先ほどの星野さんのような農村とはだいぶ状況が違いますし、幸いにして虫を食べるはめにも、マラウイにいる間にはならなかったです。大都市といっても、都市の中心部から車で5分ぐらい走ると、こういう農村風景というか、いきなり田舎の感じになりますし、もっと田舎のほうに行くと、こちら側の女の人が小川の水をくんでいますけど、当然水道もなくて、小川の水を生活用水に使ったりするというような生活が広がっています。 そういう農村のほうにも障害のある人がいるんですけど。この車いすに乗っている女性は、後で出てくる、私が働いていた施設がやっていたCBRのプロジェクト地があったジウェという、ブランタイヤから車で1時間ぐらいのところに住んでいる女性なんですが。幸いなのか、多分幸いだと思うんですけど、ヨーロッパのほうの慈善団体が奨学金を出してくれることになりまして。私が赴任したころには、私が働いている施設の隣にある私立の高校に通っていたんですけれども、私がこの任地を離れた後に、卒業ということになって村のほうに帰っていったという女の人です。先ほども言いましたけど、義務教育を完全に終了する人が1割ぐらいしかいないような国なので、とても頭のいい女性なんですけれども、当然ながら田舎に帰ってしまうとやることもなくて、せっかく教育を受けたけど特にそれを生かすこともできなくて、家にずっといるという状態が続いていました。というのは、私が隊員を終わってから1年後に、またこの村に行ったんです。そのときに、「卒業したけどやることがなくて、ふらふらしてるんですよ」という話をされていました。車いすだと、見ての通りアメリカの慈善団体から寄付された格好いい車いすに乗っているんですけど、何といっても地面が地面の状態ですから、舗装されているわけでもないですし、家の周りはいくらかこうして平らなんですけど、ちょっと離れると本当に石だらけのでこぼこ道だったり、砂が深かったりして、押してもらって動くのが難しいという状況ですから、家の周りに本当にいて、持っている本をお互いに読んだりとかいうような生活をしていらっしゃいました。 彼女のおうちなんですけど。マラウイの場合、これが典型的な農村のおうちで、比較的まだお金があるほうのおうちかと思います。地べたに直接建っているのではなくて、ちょっと土を盛って、盛り上げたところに家を建ててあって、れんがで造ってあるんですけど、その周りにきちんと壁が塗ってあるというのは結構お金持ちらしいので。下のほうに微妙にデザインも彫らせてあったりするというのは、やはり金銭的な余裕が比較的あるほうの家ではあるんですけど。でも、ご覧のように車いすで生活するには、とても不便な家です。家の中もベッドがあるわけではなくて、マットレスで寝起きしていらっしゃって、そこから車いすに乗ったりするのにも当然人の手が必要ですし、なかなか生活は不便なように見受けました。 私が働いていたチェシレホームです。先ほども説明がありましたけれど、世界的にもあちこちで活動しているイギリスの国際的なNGOが母体となって作った施設で、発達障害児の通所施設でした。基本的に一番メインの業務は、送迎車を村々に出して、そこから利用者さんを集めてきて、この施設でリハビリや訓練とか特殊教育とか、あとは職業訓練みたいなものを提供しているという施設でした。 これは、脈絡なく障害児の、そこの利用者のお子さんの様子の写真です(写真未掲載)。多いのは、マラリアの後遺症で脳性まひのようになった人というのがすごく多かったなと覚えています。 そこでの私の業務ですけど、基本的には訓練をやって、お母さんの指導をしたりとか、あとは、お子さんが座りやすいようないすを設計して提供したり。あと、この施設でやっていたCBRとか、ペアレント・サポート・グループに協力したりという業務をしておりました。今日お話をするというのは、この中でのCBRの部分とペアレント・サポート・グループの経験をお話ししたいと思っています。これが、訓練場所の写真です。 チェシレホームの地域活動ということで、CBRのプロジェクトとペアレント・サポート・グループのプロジェクトを、ここに2つ並べて書いてあります。CBRのプロジェクトのほうは、先ほどもちょっと言いましたけど、ブランタイヤの街から車で1時間ぐらいのところにあるジウェという地区で、1998年に開始しました。そもそもブランタイヤ・チェシレホームの施設長が現地の人なんですけど、海外からの寄付と取るのに、すごくCBRが有効である、CBRという名前が付いていると寄付を取りやすいというふうに聞きつけたようで、寄付金獲得のためにやるぞと言って施設長が主導で始めたものです。地域側としては、ジウェという地区の集合村の村長さんが「ぜひそのプロジェクトをうちでやってほしい」というふうに言って。どちらかというと施設側も地域側も、そこのトップの人がやるぞと言ってやり始めたというプロジェクトだというふうに私は理解しています。 一方ペアレント・サポート・グループのほうは、やはりブランタイヤから車で30分ぐらいのところにある農村部で実施したんですが、ジウェのCBRの1年後に始めまして。こちらのほうの主導は、チェシレホーム側はリハの現場のスタッフが、農村部のほうのなかなか子供を連れてこられないところにも障害者の人がいて、そこのお母さんとかが「何かサービスを提供してくれないか」と言っているので、一丁やってやろうじゃないかというようなことで始めて。地域側としても、先ほど言いましたように、障害児を持っているお母さんが、チェシレホームまで距離があり過ぎて行けない。何とか、でもうちの子供にも、そういうサービスを提供してくれないかというところから始まった活動でした。 実際にやっているのは、どちらもチェシレホーム側はリハのスタッフがやっていて、地域側のCBRは、CBRボランティアというのを現地で募ってといいますか、集合村の村長さんが「おまえ、ボランティアやれ」と言った人たちが、現地側のスタッフとして活動を実行していました。ペアレント・サポート・グループのほうは、地域側は、障害児のお母さんたちが大体中心になって活動していました。 活動の内容としては、基本的にチェシレホームのスタッフが月に1回か2回ぐらい訪問して、サービスを提供するという形は共通しています。ジウェのCBRのほうは、CBRのボランティアに講習会をやったりとか、あとは研修旅行でほかの地域のCBRを見に行ったりというようなことも行っていました。その経過なんですけれど、ジウェのほうからいきますと、1998年に始まりまして。私が行く2年前なので、実際の始まりのころはよく知らないんですけれど、ブランタイヤの周辺の地域で啓蒙活動みたいなものをやったときに、ジウェの集合村の村長さんが非常に興味を持って、「ぜひうちでCBRというものをやってくれ」というふうに言われまして、そこの村長さんのやる気の高さからジウェでもやってやろうということに決まったそうです。 そのときにボランティアを13名選択して、そのボランティアに講習会を5日間行うというところからプロジェクトは始まりました。ただ、ボランティアを13名選択したんですけど、このボランティア13名というのは、ここにドクロマークで政党問題というのがあると書かせましたけど、集合村の村長さんというのは、その当時の大統領が所属している政党のすごく熱心な支持者で、そこの政党を支持している人から13名選んだ。UDFという政党でしたけど。その政党を支持していない、対立している政党のほうの村民というのは、ボランティアには全然声が掛からなかったという状態で、そもそも村の中で、村を挙げて活動に臨んでいるというよりは、不穏なものをはらんだ感じでスタートしてしまったというところがあったようです。 当初から、ボランティアの人たちからスタッフへの「何か物をくれ」という要望がとても強かったという話で、私も2000年ぐらいになってからかかわるようになって、村に行くたびに靴がないとか、時計がないということをいつも訴えられて、「そんなことを言われても困るんだけどな」と思いながら暮らしていたんですけど。1999年に、村の中で移動手段がないというボランティアの人たちの要求があまりにも強かったので、チェシレホームから自転車を2台提供して。13人に2台というのもどういう数かと思うんですけど、これで何とか使い回して村の中の移動に使ってくれというふうにしたんですけど、そのうち1台はまずドクロマークで、出してみましたけど、集合村の村長が自分のものにしてしまって。そもそも2台しか13人いるところにないところで、1台は集合村の村長が自分で取ってしまったから、13人で1台しか使えなくて、これではもう全然役に立たないからもっと自転車をくれということを、また主張され続けたんですけど。チェシレホーム側としては、せっかく自転車をあげたのに、まだ自転車をくれと言っているという、とてもネガティブな印象を持つような結果になってしまったんだろうと思います。 一方のペアレント・サポート・グループのほうですけど、これはジウェの1年後に始まりまして。最初は同じようにチェンソンバ地区の有識者、村のリーダーとか、先生とかに対して啓蒙活動をやって、これからこういうことをやりますよという宣伝をしてから始めたそうです。このときに、比較的有識者の人たちの協力体制を得られて、毎月のみんなが集まる集会場所として「学校の建物で使っていない部屋があるから使えば?」という感じで提供されたりしたということを聞きました。こちらのほうは、貧しい家のお母さんが当然多かったんですけど、そんなに物を要求されることもなかったようで、スムーズにスタートしたようです。 その後ですけど2000年に入って、先ほど言いました、ボランティアの人たちの研修旅行というを。ほかの地域の、政府がやっているCBRの活動を見るために実施してみたりとか。あとはボランティアの人たちが、身分証明証が欲しいということを非常に強く主張されまして。でも、身分証明証を渡すと、何に使われるか分からないという施設側の不信感みたいなものが妙にあったために、その折衷案として、胸にチェシレホームと書いたTシャツを提供しようということになって、提供したようです。このぐらいから私もかかわり始めて、現地に行ってボランティアの活動とかを手伝ったりしているので、この辺からは実際に見ているんですけど。 その後2001年から2002年に向けて、今度はボランティアの人たちが、自分たちが集会する場所が欲しいということを、だいぶチェシレホームのほうに訴えてきまして。でも、チェシレホームとしてもお金がないので、建物の建設まではできないということで、マラウイの中でマラウイ人がやっている助成団体みたいなものがあるんですけど、そこにジウェの人たちを紹介して、そこの助成団体からお金をもらって集会所を建設するというところまで何とか運んだんです。ただ、そこの助成団体からお金をもらおうと思うと、村人たちが労働力は提供しないといけないという決まりになっていまして。村の地域側のボランティアたちが村人たちに呼び掛けて、みんなで集会所を建設しようという方向になるはずだったんですけど、そこで先ほど言っていた政党問題というのが絡んできたのと、あとは日ごろから村人の中で、CBRボランティアの人たちは、いろいろ便宜を図ってもらって何か物をもらったりしているようだけど、自分たちのところに何も来ないじゃないかというので、それで今さら労働力だけ出せというのはどういうことだということに、だいぶ村の中が不穏な感じになりまして、誰も労働力を提供しないという状況になって。助成団体のほうも、そうなってくるとお金も出せないという話になって、この集会所の建設計画が頓挫しかかったということがあったんですけど。 そのころに、それまで物をくれ、くれと言っていた村のボランティアたちが、ある日行ってみるとカボチャをゆでて待っていまして「このカボチャを食べてくれ」とか言ってもてなされて、何を言うかと思ったら、今、村がこんな状況になって大変だから、何とかしてくれないかということを言われたというカボチャ事件というのがあったんですが。このときは、集合村の村長もさすがに抑え切れなくなっていまして、どうするんだろうなと思って見ていましたら、うちのスタッフが、集合村の村長の上の立場になるトラディショナル・オーソリティーとかいう行政の長がいるんですけど、その人のところに掛け合いに行って、トラディショナル・オーソリティーという本人が出てきて、村でだいぶ村長とかを一喝して「みんなで協力してやれ」とか言うと、何とかみんな協力して建物を建てる方向に動きだしたというのが、私が任地を離れていく直前ぐらいのことでした。 その後、建物を建設するようになったらしいんですけど、1年後に聞いたときには、チェシレホームのスタッフの話だと、予定していない建物まで何だか分からないけど建てているということを言っていました。予定していない建物のお金は、どこからどうやって出すつもりだろうなというようなことを言っていましたけど、その後どうなったかは分からない。 チェンソンバのペアレント・サポート・グループのほうは、一方で口コミによって対象者の人も増加したり、参加するお母さんが増えたりということもありまして。これを機会にチェンソンバだけじゃなくて、ほかの地域でもペアレント・サポート・グループをやれないかという話が出て、私が1年後に行ったときには、幾つかのほかの地域まで、3つの地域ぐらいが増えて活動していました。という順調な感じで、ペアレント・サポート・グループのほうは進んでいったようです。 これが、CBRのボランティアとの会議の風景なんですけど、こういう会議が数カ月に1回行われて。これ以外に月に1回、同じ場所を使って、CBRのボランティアたちが障害児と思われる人たちをみんなで集めてきて、そこにいたPTなり、OTなり、専門職のスタッフがその子を見て、サービスが必要であればチェシレホームの短期入所のサービスを紹介したりとかするというふうなことを行っていました。 チェシレホームが出した、助成団体への報告書からくるデータなんですけれど、結果としてジウェのCBRのほうでは、1998年から2002年までの間に130人の対象児が利用することになった。平均年齢が11歳で、チェシレホーム全体では4.4歳ぐらいが平均年齢なので、それよりだいぶ高くて、それまで特にこれといったサービスがなかったから、最初のこういうところにかかる年齢が高くなっているのだろうという分析はされていました。 成果として挙げられているのは、ボランティアがよく組織されていたということを言われているんですけど、ボランティア自身は、集合村の村長のリーダーシップの下に集まっている従順な人たちだったので、ボランティア内部のほうは大体よかったんですけど、それが村民に波及していったかというと、全然そういうところはなかったかなと私は感じています。あと、一部の紹介業務は自立していたという。ブランタイヤに盲学校があるんですけど、盲のお子さんがいるのを見つけたときには、そこの盲学校を紹介したりということは、自分たちでできるようになっていたというのが成果として挙げられています。 ただ問題点としては、どうしても途上国の農村部ですので移動手段がないですから、集会場所までの移動距離というのがすごくネックになっていることです。あとは、活動を進めていく上で、チェシレホームの施設職員のほうもモチベーションが低かったというのがありまして。もともとトップダウンで言われて渋々やっているというところがあるのでモチベーションが低いところにもってきて、村へ行けば「あれくれ、これくれ」と言われてもっとモチベーションが下がるという状況だったために、最初のうちは月に2回ぐらい訪問したのが、だんだんと月に1回になったりとか、最後のほうには数カ月に1回ぐらいしか行かなくなったりという感じで。利用者のフォローアップが非常に不十分だったというのがあると思います。それに伴ってボランティアの教育も、どうしても不十分になっていました。ボランティアの活動性自身も、チェシレホームが行くというアナウンスがあったその前はちょっと活動するみたいなんですけど、それ以外の時期には特に何をしているわけでもないという状況で、活動性はとても低かったというのが問題点として挙げられていました。 チェンソンバのペアレント・サポート・グループのほうは、人数としては対象児は非常に少なくて、最終的に8名ぐらいのお子さんが対象でした。これだけの人数でしたが、お母さんたちが自分たちで自律的にグループを運営していたりとか、口コミでほかのお母さんに話が広まって、対象が広まっていったりということが成果として挙げられています。あとは、障害児を持つお母さん同士が相互にお話をする場というのが、ここで確立できたというのも大きな成果かなと思います。 問題点は同じです。農村部に特有の移動距離が長いという問題点が挙げられていました。 ジウェのCBRのプロジェクトのほうも、いろいろ問題を抱えながらもおととしですか、私が行ったときにはまだ続いていました。先ほど言ったように、ペアレント・サポート・グループのほうは、対象地域が3つ増えて全部で4つの地域ぐらいで展開するような形で、おととしの段階では行われていましたが、総じて特にジウェのほうの活動に自分がかかわりながら感じたのは、人々のモチベーションというのをどういうふうに引き上げて、引き出してというか、つかんで、それをどういうふうに束ねていって全体の活動として動かしていくかというのが、すごく難しいなというふうに感じました。長くなってしまいましたけど、以上です。 |
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質疑・応答 | |
山崎: 質疑応答を始めたいと思います。最初の発表のところで、聞きたいと思うところが多々出てきたかと思います。切り口としては、開発と障害というところでしょうか。JANNETではこれまで「アジア」だった、ということを付け加えておきたいのですけれども、今日はとても貴重なアフリカの関係性を聞かせていただきました。アフリカの経験から、アジアに関係している者が何を学べるだろう。逆に、アジアの経験を持っている者がアフリカの経験を聞いて、こういうことを言ってみたい、ということも出てきたかと思います。 それからもう1つは、JANNETはNGOの連合ですけれども、今日はJICAの経験を聞かせていただきました。JICAのように、政府とNGOがどのように協同して国際協力ができるのか、現地の自立に向けた力をもっと引き出し、世界的なということに、どうつなげられるか、ということも1つのポイントだと思いました。今日の皆さんの発表の中に、現地の人たちがどのように自分たちの村を、自分たちの暮らしを変えていけるか。そこに外部者である私たちが支援者として入るわけですけれども、当事者と外部者、支援者あるいは専門家、その関係はどうか、ということも1つの切り口だったと思います。 松井:JANNET会長の松井ですが。 鍋屋さんに、まずお聞きしたいんですけれども。先ほどのお話の中では、アフリカの場合は無償資金援助のほうが多くて、技術協力が少ないという。確かに数字はそうなっているにしても、その理由がどういうところにあるのか。あまり技術協力の要請が上がってこないのか、あるいはアフリカというところには、なかなか派遣したくても人がいないという、その両方の問題があるのか。 それと、アフリカは従来からヨーロッパと非常に関係が深くて、随分ヨーロッパのさまざまな国、あるいはNGO両方が入っていると思うんですけれども、そういうヨーロッパなどの経験が、どうJICAの中に参考にというか、生かされて展開されてきているのか。あるいは、これまでは幾つかの国と連携しながら協力するということは、あまり例がないのかと思いますが、そういう連携ができるような形になっているのか。 それからもう1つは、大体のODAはバイラテラルになっていると思います。バイでは割り切れない問題も当然あると思うのですが、国単位ではなくて、もっと広がりある取り組みというのは実際にはあるのか、そこを簡潔におっしゃっていただければと思います。 鍋屋: 松井先生からのご質問の3点について、まず、どうしてアフリカに無償資金協力が多いのかというところにつきましては、無償資金協力は、対象とする国が1人当たり1,400ドル以下の国が対象になっています。そういう点では、先ほど数字をお見せしましたけれども、大半のアフリカ諸国というのがそれに該当する。アジアでは今、タイを含めて無償資金協力の対象国から外れているところが多くなっていますので、額としても非常に無償資金協力の割合がアフリカに多い。一方、技術協力につきましては、まず日本に研修に来ていただいたり日本から人を派遣します。人の派遣については、従来は中央省庁に人の派遣を依存しているというケースが多うございましたのでどうしても安全、衛生的と思われる国を優先する。そうするとアフリカは、先ほどもマラリアのお話とかがありましたが、そういう点で人の派遣が非常に少なったと思っています。 それから、2点目のヨーロッパの経験というところですが、対アフリカの支援については、ヨーロッパも成功しなかったと思います。ですからヨーロッパは従来の支援がいわゆるプロジェクトベースでやっていたためにうまくいかなかったという点、これに先ほどのアフリカのオーナーシップの点が強調され、それから政府として、受益国のガバナンスが非常に重要だということで、今はセクター・ワイド・アプローチ、いわゆる大きな1つのプログラムの中に、ヨーロッパだけではなくて援助する側、それから援助される側でも、政府だけではなくて市民社会も一緒に、すべてのアクターが一緒に参加して1つの事業に取り組んでいく。これが今の大きな流れの中でいくと貧困削減戦略という。これがヨーロッパの教訓から出てきた今の開発援助の大きな流れだと思っています。 それから最後、バイ(二国間)の協力について日本でも地域協力の必要性は従来から言われているんですけれども、どうしても日本はバイの支援が中心で、地域協力は、ほとんど実施されていないというのが事実かと思います。ただ、研修については、地域を限定して例えばDPIで南部アフリカの国々を対象に協力いただいています。非常に限られた例ですがザンビアとジンバブエをつなぐ1つの橋というのを、両国間の協力の下で日本の無償資金協力で造って、これが南部へ抜ける交通網に貢献していますけれども、まだ限定的です。 山崎: 今日の発表では、星野さんが村落開発、河野さんが障害ということで、今のはセクター・ワイド・アプローチについての質問という形ですけれども。星野さんのほうにも、障害のほうの視点がそこに合わさっていたらどうなっただろうかとか、河野さんのところに、村落開発のJICAの経験がそこに混ざっていたらどうなっただろうかというような思いを、聞いていて持った人もいたようですけれども、その辺はいかがでしょうか。 星野:私の活動が内戦によって途切れなかったとしてもおそらく、私が直接、障害分野で取り組むことは時間的にも、私が派遣される最初の人間でしたので無理だったと思うんですけれども、やはり継続的に後任およびそのまた後任にコミュニティ・ベイスト・リハビリテーションですか、その見方を、村落開発全部をカバーする1つのコンポーネントとして、そこに取り込んで総合的に対応していくというか。具体的に言えないんですけれども、何かしら取り組みができると思っております。 河野: 私のほうは、始まりの時点でボタンの掛け違えみたいなものがあったというか。始まりの時点で、あくまでも施設のトップの人が、助成金を獲得するために始めてしまったという部分があって、うまくいかなかったところがあるのかなと思っています。 確かにおっしゃるように、農村の開発のような視点があればよかったのかなというのと、あとは発表の中で言えなかったですけど、ジウェという地方の中でも、私たちはCBRみたいなことをやっていましたけど、ほかに別の団体が同じような活動をちょっと時期がずれながらやっていたりもしたりとか。あと、CBRをやって障害者を対象にしているんだけど、実際に障害のある人たちとして連れてこられてくる人のほとんどが、障害ではなくて単なる疾病を持っている人を、向こうのボランティアの人たちが連れてきたりとかして、そういうのは全部ヘルスセンターに行ってもらえれば済むことなので、ヘルスセンターに行きなさいというふうに紹介するんですけれど。 自分たちのやっていることと、向こうに既にあるサービス、公的なサービスもNGOレベルのサービスもそうなんですけど、その辺の横のつながりというのが全然なくて、ばらばらのものとして進行していたのがよくなかったかなと思っています。コミュニティというところでは、いろんなレベルのものがうまく投合されていけば、もっとうまくいったのかなという思いはあります。 星野: リベリアの後ザンビアで活動していたときに、村の婦人を対象に、レース編み教室というのをやりまして。レース編みのできる女性隊員を呼んできて婦人にレース編みを教えて、数カ月でシーツ、ベッド・カバー大のものすごく立派なレース編みができたんです。それで、それを首都ルサカのホテルで販売して、それで現金収入を得るいうこともやりました。そこで実感したのは、彼女らの潜在能力の凄さです。ですから、手工芸技術の技術移転というか、そういうことも可能かなと思いますが。 中西: アジア・ディスアビリティ・インスティテートの中西と申します。 私たちが障害分野で社会開発として今とっているアプローチの1つは、グラスルートのセルフ・ヘルプ・グループの育成とか、それから今お話に出ましたCBRですけれども。そういうものというのは、やはりコミュニティがあって、そこで実践していくときに効果があるものです。でも、現実にアフリカの現状をいろんなニュース等から見ますと、例えば先ほどリベリアのお話が出たように、HIV/エイズで若者がどんどん死んでいってコミュニティが活力をなくしているとか、1人では希望がなくなっているとか、それから相互扶助の精神がなくなって、エイズ孤児の人たちをもう誰も見ることができなくなっているとか。そういうニュースを聞くにつけ、コミュニティが崩壊してきたときに、今までとってきたアプローチというのは本当に効果的にできるのかなと、いつも疑問を持ちつつ考えていのですが。 コミュニティの再構築というか、評価というのは、もちろん今申し上げたグラスルートの障害者団体がセルフ・ヘルプ・グループの育成とか、CBRも、その一助とはなると思うんですけれども、現実にアフリカではどういうふうにされていて、可能なのかなというその現状とか、将来的な展望とかを、もしどなたか教えていただけたら。ザンビアの例でも、リベリアでも、マラウイでもどこでもいいんですけれども、教えていただけますでしょうか。 鍋屋: 例えばHIV/エイズで一番アフリカで割合が高かったというのは、ウガンダだったと思うんです。当時50数歳の平均寿命、これが一時期30代にまで落ちて、これがまた40代後半のほうに盛り返してきている。これは、HIV/エイズでのアフリカの成功例というふうに言われています。中西さんがおっしゃったところの、アフリカのコミュニティの開発というところに直接つながらないかもしれませんが、国としてのそういう成功例というのも、やはりアフリカの中で見られている。これは、1つはやはり今のムセベニ大統領の非常に大きなリーダーシップ、早めにHIV/エイズというものをきちんととらえて、国として何をしなくてはいけないかというのを、大統領自らがイニシアチブを取ってやってきたという1つの成功例になっているかと思うんです。ですからアフリカについて、私のほうも非常にいろんな暗い面というのを強調していましたけれども、成功例というのは幾つか見えだしているとも言えるかなというふうには思っております。 星野: コミュニティの再構築ということで、コミュニティ全体を盛り上げるということではないのですが。あるコミュニティが、例えば水を供給するという視点で、どう改善していくかというような取り組みは、ザンビアの都市部のスクウォッター(不法居住区)の活動が参考になります。衛生的な水をいかに使うか、給水栓をいかに維持管理していくかとか、水の料金をいかに徴収するかという点で、日本と現地のコミュニティが協力してトレーニングやキャンペーンなどを行って、水という面のみならず保健衛生の点でも、コミュニティの状況が改善されたということがあります。そういった面から言いますと、水を発端に、他の分野、例えば、保健衛生なりへの広がりを持った同様の活動が可能ではないかなと思います。 河野: 特に目覚ましい意見はないんですけれど。確かにマラウイにいるときにも、結構農村部のほうでもエイズ孤児の面倒を見る人がいなくて、それで孤児院を造らないといけないなというニュースをいる間に聞いたりして。コミュニティ自体も昔であれば、もしかするとその農村の中で見られたはずのものも見られなくなっているかなというか、コミュニティの力が落ちてきているのかもしれないなと思っているところがあったので、今のご意見は痛いところになるんですけれども。実際にコミュニティの力みたいなものが、コミュニティみたいなものが壊れていっているときに、どうやってそれを再生させていくのかというと、よく分からないんですけど。 今言われたような例えば水問題とかで、同じ1つの利害が絡まっている人たちが集まって1つの目的に向かって活動していったりとか、自分のチェシレホームでやっていたもので言えば、障害者のお母さんたちの集まりは比較的うまくいったようなんですけど。まさにリアルに何か課題があって、それに向かって、利害関係がある程度ある人たちの中でそれを解決していく過程の中で、もう1度コミュニティみたいなものが出来上がっていくというか、再生していくということがあるのかなとは思うんですけれども、それぐらいの意見しか言えません。すみません。 山崎: コミュニティの再構築に関して、私はこういう経験を持っているとか、こういうことはどうだろうかとか、ご意見がある方はぜひ話してください。 中西: 実はアフリカの障害、当事者の団体の方たちとお話をしていて、いつもネックになるのは、例えば彼らの団体にとってHIV/エイズは障害の中に入るかどうかとか、そういうことなんですけど。そこまでいくまでの段階より以前に、自分たちのメンバーの人がHIV/エイズの教育をして、守るというところでまだ止まっているんです。そこでもう少し発展があれば、コミュニティの全体的な発展につながるのではないかなと思っていつもお話を聞いていたので、今の質問をさせていただきました。 落合: 龍谷大学の落合といいます。 今コミュニティにかかわって、星野さんに質問なんですけど。リベリアのテー村は行ったことはもちろんないのですけれど、都会のブランタイヤのコミュニティとは全然違って、テー村のコミュニティというときに、例えば秘密結社文化圏というイメージがあるんですけど。秘密結社がコミュニティというときに、今でも1989年の段階で機能しているんですか。それとも、それはもうかなり弱ってしまったものなのですか。 星野: コミュニティの根幹には秘密結社があります。秘密結社と、その結社が行うブッシュスクール(伝統学校)があります。そこでは、ある年齢階層にきた子供たちが一定期間(私には教えてくれないんですけど)、ブッシュ(密林)のどこかに入って、伝統知識やしきたりなどを学んでいる。それで学んだ子供がまた大人になっていく。コミュニティで何かする際にも、やはりその秘密結社が大きい力を持っていました。内容は絶対に教えてくれないのですが、昔から続いてきている血縁関係とかを元にした濃い人間関係があって、それが外部の人にはまるで把握できない。その中で多分いろいろなルールなり、原始宗教も含んでいるのだと思います。そういうものがあって、それが村の生活の根底になっている。ですから、我々外部の人に見せている姿はほんとうの姿とは多分だいぶ違うように思います。 私が1年5カ月暮らして、村人とプロジェクトをやっても全然問題はありませんでした。通常の暮らしでも。ただ、あるときにそういうのが出てくる。例えば橋の開通式の際には、デビルという精霊が山からやってきて、その精霊が踊り狂って村に力を持ってくるとか。生活の節々に出てくるんですけれども、村人と何か協力していて、その内容とかやり方とかに問題が生じたことはありませんでした。 山崎: 中西さんがコミュニティの再構築とおっしゃった部分は、それは村のことだとか、海外からお金を持った、力を持った人が物資を持ってきて、それを配ってやることだったんじゃなくて、そこに住んでいる人たちが自分のことより少し関心を広げて、村のことを考える人が増えて、そういう人たちがある力を出していく。そういう固まりのことをおっしゃっていたのでしょうか。そういうコミュニティの再構築と、伝統的に見えない形で、だけどすごく結束が強いものが消えつつある、あるいは強く残っているという多様な中で、外から入ってきた者が、それをどうつないでいくのか。自分たちが、外部者の役割をどうとっていくかということでもあると思うんです。この話をどなたか、さらに展開してくださいませんか。 星野: 外部者との関係を持って何か将来に向かっていく、そういうことができるコミュニティもあるし。コミュニティといっても、協力隊員が派遣されたら、すぐ追い出してしまうようなコミュニティもあるわけでして。それがどういう要因で協力隊員を追い出してしまうようになったかというのは、じっくり分析しないといけないんですが。やはり村々によってかなり性格が違いますので、一応に協力を支援するというよりは、私自身の考えでは、村の中でも違う。でも、その中で取りあえず我々が対応していくのは、村々の中でまたいい村というか、やる気を持って、まとまりがあって、そういう村しか多分対応できないと私は思うんです。そういう村は、おそらくリベリアであれ、ザンビアであれ、どんな地域でも多分見つけることができると思います。 辻: 全国脊髄損傷者連合会と日本車いすテニス協会と両方の立場で参加している辻と申します。 車いすテニス協会ですけれども、実は世界でもう80数カ国に協会があって、それぞれ連携して動いております。ITF(国際テニス連盟)がリードを取って、私たち自身もロシアと東南アジア各国の開発をやってきて、普及、啓発活動をやってきていますし、ヨーロッパの国がアフリカを担当しているというように、それぞれの国で分担してきちんとやっております。それから、脊損連合会のほうでは組織として直接には関係ないですけど、リハビリを利用する脊損の当事者ということで(財)国際医療技術交流財団のリハビリテーションの関係で講師を務めていて、特にアフリカの方が来られているケースが多く、そのことで興味を持って今回は参加させていただきました。 コミュニティというのはテリトリーがあって、そして人がいて、そして意思決定機関があって初めてコミュニティというのは成立するわけですよね。今のお話を聞いていますと、先ほど秘密結社とおっしゃっていたのは、その部分のテリトリーと人はいて、グループはあるんだけれども、意思決定があやふやですよね。シャーマニズムで村長さんを越えた決定機関があったり、宗教的なものがあったりするわけです。アフリカなどのケースでは、この間私が担当した場合もお話を聞くと、例えば定住しないブッシュマンの人だと、コミュニティ自体がもうないわけです。「その方達が、もし障害を受けられたらどうするんですか」と聞いたら、「3日分の食料を置いて捨てていくんだ」と。それで、もし治って追いかけてこれたら仲間に入れるけど、そうでなければ助けられない。「医療の人たちはどうしているんですか」と聞くと、パトロールが回っていて、たまたま見つけてピックアップできれば都市に連れて帰って、そこで医療とリハビリテーションをやるけれども、その人はもう元のコミュニティには戻れない、というふうな話を聞いて。コミュニティというのはアフリカのレベルで言うと、都市部と地方と、それからブッシュマンのように本来的な意味でのコミュニティ、テリトリーを持たない人たちですよね、グループとしての地域性を。そういうふうな存在があるのがアフリカだと思って、アフリカ自体のコミュニティの在り方というものと、障害のある人を助けるということが非常に難しいと思っていたんです。だから、今回のお話を聞きたいなと思って大阪から参加させていただいたんですけれども。 例えばテニスなど、一般のスポーツの世界もそうだと思うんですけれども、アフリカの人は個人としての社会的な能力が開発されると、要するに都会とか、先進国に出て行く事が多々あります。本来のコミュニティに所属はしているかもしれないですけれども、自分のコミュニティなり国なりを捨てていくわけです。また、移民という方法もありますし。僕らはリハビリでかかわっていきますから、リハビリというのはコミュニティではなくて、人をまず助けることを支援します。人を助けるために一生懸命応援すると、日本国内でも社会資源がないとコミュニティを出て行きたいというふうになってしまうわけです。 先ほどのケースでマラウイ、女性の障害のある方。せっかく教育を受けて地元に返したけれども、何も能力を発揮できずに日々無為に過ごしてしまう。無為ではないかもしれないけれども、そのような状況があったということを考えますと、障害のある人への支援のあり方について考えさせられます。その中で特に河野さんにお聞きしたいのは、CBRでジウェのボランティアの人たちに講習会をやっておられるとおっしゃっていたんですけれども、その講習会の中身が、僕は逆のほうの開発サービスのほうがCBRに近いのかなと思うんですけれども。チェシレホームのスタッフのCBR活動もうまくいっていないとおっしゃっていた中で、講習会は何をやっているのか。だったらそこにも1つ問題があるのかなと思ったので、質問させていただきたいなと思います。 河野: この講習会をやったときには、まだ私は着任していなかったので講習会の実際は見ていないんですけど、政府の職員から聞いている話では、基本的には障害とはどういうことかというようなことと、最初は、この村で障害児を発見するみたいな役割をすごく大きくボランティアに与えていたらしい。だから、こういう人が障害児だから、リハビリテーションのサービスに紹介するといいですよというような講習会を5日間でやっていったというふうに聞いています。本当は、その後に簡単な訓練とか、そういうリハビリのサービスもできるような講習会もやることを予定していたとかは言っていましたけれども。実際に講習会でやっているのは障害児を発見するためのものです。発見した後は、チェシレホームが月に1回ぐらい派遣スタッフを送っているそこで、「この人は障害児だと思うんですけど」ということを紹介して、実際にPT、OTとか専門職が見て、何かサービスが必要であれば、そのサービスのほうにさらに振り分けていくという形になっていました。 長島: 長島と申します。学生です。 星野さんにお聞きしたいんですけれども。実際に現地に行きましてコミュニティ開発ということで、そこにいる村人の人たちが当事者となって、実際のコミュニティの問題に自分たちが気づいて、それにどうアプローチしていくのかということを、村人の人たちが当事者であり、協力隊員はその活動を促すファシリテーターとしての役割であるのかというふうに私は感じたんですけれども。実際にコミュニティの企画力、活動力を強化するよう指導、教育を行ったとおっしゃっていたんですけれども、具体的な方法といたしまして、どういうふうに住民全体の参加を促し、またその村人の中にも子供と若者がいらっしゃったと思うんですけれども、その参加もどのように促したのかという、その方法についてお聞きしたいと思います。 星野: まさしく私の村落開発普及員の役割は、ファシリテーターでした。ファシリテーターとして重要なことは、村人同士が将来なりを、どうしたら改善するかということを考える場、機会を作ることなんです。村人というのは、長い間ずっとおそらく同じ地域で暮らしてきていて、現状の問題とかに取り組もうという姿勢というのがない。日々の生活に追われて、そうしたことがあまりないというような現状なんです。その中で、村人にそういう話し合いの場を何度も何度も持たす。そして、村人自身で話し合いは進んでいくんですが。それで私の役割はというと、村人自身が「こういうときはどうしたらいいか?」とか「AとB、どう考えるのか?」ということについてその判断を仰ぐというか、アドバイスを求めてきたときには、「私はこう思うよ」と自分なりの考えを出すということです。私自身もたかが20代で、人生経験が少ない中で、ずっとその場で生きている村人たちに偉そうなことは言えないんですが、自分なりにより良い方向性について村人に対して語る。あくまで、すべての決定は村人が行う。 リベリアの場合は、村の長老を筆頭とする組織が割としっかりしていて、そういう話し合いを持って、村人が決めたことは全部伝わって、しっかり守られるというようなラッキーな面もあったんですが。これは国とか地域によって違いまして、その後ザンビアで活動した際のある村では、そのような場を持つんですが、場でもって決めたことを誰も守らない。井戸を掘ろうと決めて、1週間後の掘る日に来た村人は2人しか来ないとか、もう情けない。何度も何度も場を持っても、ついてこないというか応じない。だから、打っても響かない村もあるというのが実情です。 山崎: とても残念ですけれども時間が来てしまいましたので、ここで閉じさせていただきます。今日はアフリカの3人の経験を通して、特にご経験だけじゃなくて、人格的な人間的なかかわりも、とても私たちの心に響いたと思います。これからも、障害と開発ということで会を持っていくと思いますけれども、今日はとてもたくさん、いろんなことを考えさせていただきましたこと、ありがとうございます。 |
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閉会の挨拶 | |
田口: 本日は、このような素晴らしい研究会が持てたことについて、このお三方の講師に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。このような研究会をJICAとJANNET共催でやりたいという立案計画が、上野さんからありました。そのときに、鍋屋さんに講義をいただく。それは願ってもかなってもないことで、アフリカのお話をしていただくのに、この方を越す人はJANNETでもいないだろうと。もし越す人をお願いするんであれば、それは緒方貞子さんしかいないはずだというふうに電話でお話し、相談を進めさせていただきました。かれこれ8年間アフリカの体験をお持ちでいらっしゃる鍋屋さんにご快諾をいただきまして、貴重な週末の1日、時間を割いていただいたけれども、私どもは、大変貴重な収穫をいただいたというふうに思います。アフリカ課はとりわけ生え抜きがそろっているところでございまして、そういう優れた方に今日、このような私どものところでお話しいただけた。鍋屋さんのお名前を、将来ともどもご記憶ください。 また、星野さんは、村落開発の隊員でいらしたのですが、私は、たまたま協力隊の技術協力の福祉分野を担当しておりまして、つい2〜3日前に理学療法士の二次面接を終えたところなんです。福祉分野はPT、OT、義肢装具士、ソーシャルワーカー、養護、言語聴覚士、比較的広き門でございます。そこそこの人であれば、健康さえあれば大体通るんじゃないかというふうな感じなんですが。しかし、その中にあって、村落開発で普及員で行こうとすると大変な激戦の分野でして、「村落開発で隊員で行きます」なんて聞きますと、ちょっと一目置かれる分野でアフリカを経験されている。アフリカの村落開発、これはとりもなおさずCBRの原点でありまして、そういった参考になる貴重な体験をお話しいただき、今日はありがとうございました。 河野さんの話は今日が2回目です。最初は、応募の時期から自分を患者と見なして、どういうふうに異文化に適応していったか、というショック期から、拒否期から、適応期からのいろいろなお話を非常に面白おかしく聞きましたが、今日は極めてまじめなお話をしていただきました。 お三方の今日のお話を聞いておりますと、とても時間が短かく、「あら、もう終わりなの?」という感じがいたします。今回は会場もお借りできまして。私どものJANNETとしては、エポックメーキング的な事業でございます。これからも、どうぞ懲りずにお力添えをいただきたいというふうに思います。 また6月には研修会もありますので、ぜひこういう交流の機会、情報交換の場を大切にこれからも育てていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。本当にお三方の講師の先生、今日はありがとうございました。 |
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