2005年11月10日から13日まで、マレーシアの首都クアラルンプール郊外にあるリゾート施設サウウェイ・ラグーンのホテルで、標題の大会が開かれた。10日は、眼科医による眼科検診。国際視覚障害者スポーツ連盟(IBSA)のルールにのっとり、日本パラリンピック委員会医学委員でIBSAクラス分け委員でもある李俊哉先生<リ・トシヤ>と、マレーシアの眼科医によって、過去の国際大会に参加したことがない選手の視力や視野が厳密に測定された。そして、11日は公式練習と開会式、12日が個人戦、13日がダブルス戦と閉会式というスケジュールだった。
視覚障害者がスポーツの大会に参加する際は、視力や視野の程度によってB1からB3までにクラス分けされる。B1は全盲か光覚で、念のために競技中にはアイマスクを付けなければならない。また、視覚障害者ボウリング「テンピン・ボウリング」では、助走する場所の横に、ガイドレールが置かれ、その手すりに手をふれながらボールを投げる方向を確認する。そして、ボールを放す瞬間には、その手すりから手を離さなければならないルールだ。B2の選手は視力0.03以下か視野が5度以下ということなので、ガイドレールを使うことが認められてはいるが、実際にはガイドレールを使っている人はいない。B3は視力0.1以下か視野が20度以下である。11日の夜におこなわれた監督会議では、眼科検診の結果を基に各クラスの選手が確認され、ルールについても改めて共通理解がはかられた。
テンピン・ボウリングがIBSAの公式競技になったのは、2002年のフィンランドのヘルシンキ世界大会からだ。テンピン・ボウリングというのは、日本で普通に言うボウリングのことである。10本のビール瓶のような形をしたピンが、ボウラーの側から見て、とんがった方を手前に二等辺三角形の形に並んでいる。
一番手前のヘッドピンが1番ピン、その次の段に2、3番ピン、3段目が4から6までの3本、最後の4段目に7から10までの4本が並んでいる。わざわざテンピンというのは、ヨーロッパを中心に9本のピンを並べたボウリングと同じような競技があるので、それと区別するためのようだ。
第1回世界大会に、日本代表として筑波大学附属盲学校教諭の青松利明さんが出場、みごとB1クラスでメダルを獲得した。翌年の2003年に、その青松さんが第1回のアジア視覚障害者ボウリング選手権大会を東京で開催した。世界大会とアジア大会は交互に2年に1度ずつ開催される。2004年の世界大会はアメリカのフロリダ州オーランド、そして今年のアジア大会がクアラルンプールになったのである。主催はマレーシア盲人協議会、常務理事のアイバン・ホ・タク・チョイ氏(全盲)が、マレーシア・ボウリング協会の全面的な援助を受け、八面六臂の大活躍、大会を成功に導いた。会場には、マレーシア盲人協議会のクラセガラン会長をはじめ、IBSAのボウリング委員会委員長のアンドリュー・チュー氏(シンガポール、全盲)、同委員会アジア代表の青松氏(全日本視覚障害者ボウリング協会会長)、それにマレーシア・ボウリング協会のシドニー・タン事務局長をはじめとする役員らが顔をそろえ熱心に観戦していた。
参加国は、台湾、日本、韓国、シンガポール、タイ、マレーシア、ウエスト・オーストラリアの7か国・地域。各国の選手だけで、52人、役員20数人を加えると80人近くが参加した。
表彰は、まず個人戦6ゲームで金、銀、銅、ダブルス戦は二人分の合計点で順位が決まる。そして、最後に、個人戦とダブルス戦の合計点で個人総合が決まる。つまり、選手個人でいえば、初日の個人戦6ゲーム、翌日のダブルス戦6ゲームの得点を合算したものが総合得点となり、その成績によって最高の栄誉が与えられることになる。
総合で二つの金、個人戦で一つの金
日本チームの結果は、総合でB2の森透〈トオル〉さん、B3の森澤亜希子〈モリサワ・アキコ〉さんが、それぞれ金メダルを獲得した。ボウリング場の壁側面にコンピュータ制御による日の丸が掲揚され、君が代が流れる。国際スポーツの会場では、いつも見慣れた光景だが、日本選手の中でも森さんは特に感激したに違いない。アジア、世界、アジアと3連覇した森澤さんの女王ぶりと異なり、森さんは40歳といえ、奈良県立盲学校専攻科1年生。見えていたときには、プロのボウラーを目指したこともあったというから、失明後のギャップは大きかったに違いない。たぶんそこからまだ充分に抜け切れていないはず。
前日の個人戦では銀だっただけに、逆転しての金はうれしいところ。これからの人生に大いに自信を持ったであろう。
銀メダルはB1女子の江村<エムラ>タマミさんが獲得した。日本では右に出る者がいない江村さんも、韓国のパク・ヒュースクさんが登場してからは、国際大会では苦戦している。それでも、筑波大学附属盲学校の先生だからというわけでもないだろうが、固定ビデオで投球動作を撮影してもらっていた。あとで見てもらい、投球スタイルを研究するのであろう。その熱心さには頭がさがる思いだ。この江村さんを破ったパクさんは、韓国第3の都市大邱<テグ>の出身、ハードな練習を重ねているという。投げるボールはまっすぐに転がり、ストライクやスペアをよく取っていた。
ここで、ボウリングをよく知らない方のために説明しておくと、ストライクというのは、最初に投げた第1投で10本のピンを全部倒すもの。スペアは1投で残ったピンを、第2投できれいに倒した場合をいい、いずれも次のフレームの得点によって加算される。高得点を取るためには、ストライクやスペアを取るのが必須条件だ。
日本チームの成績は、個人総合で金2、銀1、銅1。ダブルス戦で銅1、個人戦で金1、銀2、銅2だった。それに対し、国別で第1位になった韓国は、総合で金3、銀3、銅1。個人戦で金2、銀3、銅1と日本を圧倒。金を5点、銀3点、銅2点、4位を1点として、各国の成績を点数化すると、韓国51点に対し、日本は33点という差になった。表彰で韓国の国旗が掲揚され、国歌が流れるごとに、韓国チームは大歓声をあげ飛びあがる。おとなしい日本チームに比べ、その存在は際立っていた。韓国盲人連合のチョイ事務局長によると、韓国には7都市に視覚障害者ボウリング・クラブがあり、毎年国内大会を持ち、競技種目としてのボウリングに、大勢の視覚障害者が励んでいるという。日本とは競技人口そのものに大きな差があるわけだ。
因みに、ほかの国は、台湾26点、マレーシア18点、シンガポール12点、タイ4点で、オーストラリアは0点だった。ウエスト・オーストラリアというのはパースに住んでいる視覚障害者のクラブだそうだが、競技というより趣味でボウリングを楽しんでいるようで、参加者には80歳を超えた人もいた。これでは他のチームと勝負にならないのは当然だ。
青松さんは、日本チームももっと若返らないと、ほかの国にあっという間に抜かれてしまうと心配していた。しかし、韓国のB3で1位の男性は51歳だというし、ほかの女性もみんな30歳を超えているとチョイさんは言っていたので、あながち年齢が若いだけではないようだ。
ここで個人総合の成績を紹介しておこう。数字は12ゲームの総得点、括弧内は1ゲームの平均点である。
B1女子:金=パク・ヒュースク(韓国)1412(117.67)、
銀=江村タマミ(日本)1244(103.67)、銅=ナム・サンギム(韓国)1033(86.08)。
B1男子:金=ソー・カンスー(韓国)1204(108.33)、銀=ユン・ペンチョン(シンガポール)1184(98.67)、銅=小島義久(日本)1157(96.42)。
B2女子:金=ジェン・チジュン(台湾)1627(135.58)、銀=キム・ミョンジャ(韓国)1586(132.17)、銅=チュー・ヒューミン(台湾)1567(130.58)。
B2男子:金=森透(日本)2110(175.83)、銀=チュー・カムチャン(マレーシア)2102(175.17)、銅=ホ・チャオエン(台湾)2007(167.25)。
B3女子:金=森澤亜希子(日本)1751(145.92)、銀=チョー・ユンヒャ(韓国)1601(133.42)、銅=ウェンディ・ウォン・キムエン(シンガポール)1591(132.58)。
B3男子:金=イ・ヨンテ(韓国)2105(175.42)、銀=キム・ナムフン(韓国)1911(159.25)、銅=スー・チュンフン(マレーシア)1900(158.33)。
すっかり元気付いたチョイ事務局長は、第3回世界大会を来年4月17日にソウルで開催することを宣言、各国に参加を呼びかけていた。なお、2007年の第3回アジア大会はシンガポールの予定だ。
(『点字ジャーナル』2006年1月号より転載)